山内 一豊。 土佐の人物伝 ~山内一豊と妻・千代~

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それなりの、苛烈な面を持ち合わせているのは確か。 当然、補佐役の一豊にも火の粉が飛び、朝鮮行きを命じられたりしていますが、なんとか難を逃れたようです。

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家康の留守中にのらが挙兵すると、一豊はにおける軍議()で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。 慶長8年()、に昇叙し、に転任する(『』)。 しかし、盛豊の主君である織田 信賢 のぶかたと同族の織田信長との間で争いが起こると、 一豊は 兄と父を相次いで亡くす悲劇に見舞われてしまいます。

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それをみかねた妻・千代は夫に何かあったらと父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡した。 最後に。

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それでも、相撲見物に来た一揆の残党70人余を捕らえて処刑するなど、飴と鞭を使い分け、巧みに国の統治につとめました。

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その金は、実家の父親から与えられたものだったというが、そのことがきっかけで一豊は信長に認められ、出世の一歩を踏み出した。 じつは、あの大胆な発言は、一豊が最初から考えたワケではない。 子供が生まれれば、その子に自分の跡を継がせたいと考えるのは世の常。

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また、翌12年()のでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。 7-5. 黒田城跡のにも、生誕の石碑がある• 子がいなかったため、甥の忠義がを継いだ。

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江戸へ戻る家康を掛川で饗応。 それまでの朝比奈氏や石川氏時代の城郭に大規模な修築を施し、天守閣の築造、総堀の完成など、近世城郭として城の大規模化を図りました。

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()、近江国長浜城主となって2万石を領す。

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