一切 衆生 悉有 仏性。 一切衆生【いっさいしゅじょう】の意味と使い方の例文(類義語・語源由来・英語訳)

一切衆生 悉有仏性

それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする。 何故なら大涅槃経に、そう書かれているからです。 言語によって相対を離れた事象を扱おうとすると、たとえば「有でなく、また無でもない」といった表現に頼らざるをえなくなることが多いが、これはもう言葉の宿命とすら思えてくる。 この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 しかしこれが変容されてしまい、あたかも人間の中に「仏陀の心」があるかのように誤解され錯覚されてしまいました。

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正法眼蔵第三「仏性」巻の概要と現代語訳と原文

『涅槃経』に「仏性とは特定のものではなく、空や智慧、中道、阿耨多羅三藐三菩提と同じような意味であるが、衆生は無明に覆われていて真理が分からないのである」というようにある。 曹洞宗では道元さまの師匠天童山の如浄禅師までにお釈迦さまから数えて五十人の祖師方がいます。 宗派による違い [ ] 上記のような各仏典の成立の前後関係が判明したのは、近代の科学的なの後である。 つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。 とはいえ『金光明経』はもとより『法華経』では未来における釈迦仏の常住については『涅槃経』ほど詳細に述べられていない。 え、それだと、「山川草木悉皆成仏」でいう草木、山や川は成仏できないじゃん。

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「山川草木悉皆成仏」という思想(1)

この言葉を体現するとき、この自分こそが身も心もまさしく仏のあらわれとして存在していることを、人は明らかに知るのである。 『涅槃経』にちなむ説話・成語 [ ] 『涅槃経』には、雪山童子の説話とのたとえ、また慣用句である油断大敵の典拠が説かれることで知られる。 仏教用語。 さらに日本の天台宗では、仏性を()に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)までが、後世に生まれた。 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)• 部派仏教の人々にとって目標は阿羅漢であり、成仏をめざすことは不遜であった。 それを覚られたのがお釈迦さまであり、諸仏諸祖であります。

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仏教講座|仏性があるとは、どんなことなのか|浄土真宗 親鸞会

あなたは真面目に自分を見つめていられる方だからでしょう。 無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。 王、一臣に勅して一油鉢を持たしめ、中を経由し過ぎて傾覆せしむなかれ。 この言葉こそ、我々僧侶が師と仰ぐお釈迦様の勝れたる一語である。 ; 磯田, 熙文 2009-08-20. また、仏性とは「如来蔵」と同義だともいう。 『』(1)第2経「遊行経」• 心・境・性・相等にかかはれず。

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曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

八千の声聞は法華経に於いて記別を受けることを得たり。 さらに、その後成立した『』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。 そうした上で、あらゆるものは仏であり真理であると言っているわけだ。 また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。 常楽我浄(じょうらくがじょう)• 作成意図 [ ] 上記のように、『涅槃経』はそれまでの大乗経典を参照として、それらの教説の食い違いや矛盾をこの『涅槃経』をもって帰結させるという目標のもと成立した経典といえる。

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天台宗 > 天台宗について > 法話集 > 阿弥陀の一心三観

それは衆生と呼ばれたり、有情と呼ばれたり、群生と呼ばれたり、群類と呼ばれたりする。 それで道元さまは諸々の経典、諸説を学び、多くの祖師に参じたのであります。 この三巻の中で道元さまは「真理」を説き、「悟り」について説いておられます。 空を主張する中観。 『涅槃経-如来常住と悉有仏性』<サーラ叢書>• これらの事実からわかるように門下の四哲を筆頭とする弟子衆は、師であるが訳した『』よりも『涅槃経』を重要視していたといえよう。 それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。 しかし現在の日本仏教では、法相宗などの一部の宗派を除き、仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている。

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一切衆生【いっさいしゅじょう】の意味と使い方の例文(類義語・語源由来・英語訳)

伝統的な仏教における仏性の理解と、道元禅師の理解とでは何が違っているのか。 仏性とは「仏であることの本質」であります。 下田正弘 『大乗涅槃経 中層 の研究』2005 東京大学• 私にできることは限られています。 遍界我有は外道の邪見なり。 」ということになるのでありますが、実は道元さまはそのようには捉えていなかったのであります。

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